水鏡

 長い冬から抜け出し、まもなく春という頃、テンマは警察病院を訪れていた。
 病室のドアを開けると、ベッドに上体を起こした金髪の青年が視線を向けてくる。彼が失踪したあの夏の日とさらに違うのは、灰色の空に覆われた窓の景色と、テンマの後ろに複数の人間が控えていることだった。


 テンマはベッド横のパイプ椅子に腰を下ろし、開口一番にそれを告げる。
「ヨハン、話は聞いているね。今後、君の身柄は私が引き受ける。つまり私と一緒に暮らすんだ。……それでいいね?」
 ヨハンの青い瞳が水面のように微かに揺れ、「はい」と唇が動いた。



「ヨハン、ここが君の部屋だよ。ベッドや机、家具なんかはひとまず用意したけど、他に必要なものがあったら遠慮せずに言ってくれ。何か質問はあるかい」
 警察病院からヨハンを連れて車で帰宅したテンマは、改めて彼に部屋の案内をする。このアパートにはヨハンも一度来たことがあるが、その時この部屋はただの物置部屋でしかなかった。


 ヨハンは涼しげな表情で簡素な部屋を見回すと、テンマに視線を移す。
「先生」
「何だい」
「僕には現在も警察当局に把握されていない口座がいくつかあります。生活費なら僕も――」
「……ヨハン、その口座はマネーロンダリングで得たものだろう」
「ええ、そうですが」
 何か問題でも?と言わんばかりの青年に、テンマは内心脱力する。彼と暮らしていけるのかますます不安になったが、何事も最初が肝心だ。テンマは軽く深呼吸し、ヨハンを見据える。


「いいかい、もうそれらの口座は使わないと約束してくれ。口座は新しく作ろう。ここで私と一緒に暮らすのなら、決して罪を犯さないこと。とにかくそれだけは守ってほしい」
「……わかりました。あなたがそう言うのなら、それに従います」
 意外と物分かりのいいヨハンにテンマは小さく息をついた。
「心配しなくたって私だって君を養うくらいの余裕はあるさ。それからもうひとつ、大事なことだ。住民登録に君は『ヨハン・リーベルト』の名で登録されることになっている。だが君には別の、本当の名前がある。……私はどちらで呼べばいいかな」
「ああ、それなら先生の好きなようにどうぞ」
「え、いいのかい、それで」
「ええ。僕はどちらでも構いません。あなたの呼びやすいほうで呼んでください」
「じゃあヨハン、でいいか。正直、他の名前はしっくりこないんだ」


 実を言えば、彼の母親が教えてくれた本当の名前で呼んだほうがいいに決まっている。だが、名前のことを告げたあの病院での一件以来、ヨハンが母親に関する話を振ってくることはもうなかったし、彼もあまり考えたくなかったのかもしれない。


「よし、じゃ外に行こうか」
「……どこへ?」
「買い物ついでに、この街の案内だよ。君もこの辺りについてはあまり詳しくないだろう?」



 突如始まった二人の同居生活。その発端は、失踪したはずのヨハンがテンマのアパートを訪れたことからだった。


 あの雪の日、ただ会いたかったのだとヨハンから告げられ、テンマは動揺しつつも彼を家に招き入れた。
 今までどうしていたのか、身体は何ともないのか、今はどこで何をしているのか。ずっと胸に抱いていたことをヨハンに訊ねた。ただヨハンの口から彼の母親については聞くことができなかった。テンマの家にもう一人の来客が訪れたからだ。


 客の名はルーディ・ギーレン。そもそもその日、二人は久しぶりにテンマの家で会う約束を交わしていた。あの事件以来、二人は時折顔を合わせるようになっていたのだった。


 ヨハンを目にしたギーレンは当然驚き、ヨハンをこのまま見過ごすことはできないと主張した。だが意外だったのは、その意見をヨハンがそのまま受け入れたことだ。この事態を予測していたかのようにヨハンはひどく冷静だった。


 テンマにはどうすることもできず、ヨハンの身柄は再び警察病院へ移送されることになった。表向きヨハンの容態はいまだ昏睡状態のままということになっていたが、それもそのはずで上層部はヨハンの対処に関してかなり揉めたらしい。


『ヨハンの類稀な洗脳能力を恐れた政府が彼を持て余した』『事件を完全に立証するのは非常に困難』『ドイツとチェコの暗部を暴かれたくない関係者が多数いた』――。
 理由を挙げればきりがない。だが詰まるところは結局、誰も責任を取りたくなかったということなのだろう。


 そうしてテンマの許に舞い込んだのが、ヨハンとの同居話だ。
 独身で恋人もおらず、家族や親戚は遠い異国の地。臭い物には蓋を――「怪物ヨハン」を何が何でも遠ざけたい彼らにとって、絶好の人物がテンマだった。


 テンマはヨハンの素性を知る数少ない者の一人だ。失踪していたヨハンが意思を持ってテンマのアパートを訪ねてきた件も、他者には到底理解できないことだろう。ヨハンもこの申し出に賛同し、強く希望しているとのことだった。


 ヨハンの双子の妹、ニナと兄妹で暮らす選択肢もあったが、ヨハンの精神状態や二人の生活状況を踏まえると、むしろ互いのためにもまだ離れていたほうがいいという結論になった。


 当然ながら、ギーレン、さらにライヒワインはヨハンとの同居に反対した。「君がそこまでしてやる義務はない」「危険だ」と何度も説得され、彼らの言い分も痛いほど理解できた。
 もちろんこの同居は強制ではなく、断ろうと思えば可能だ。だが、テンマにはどうしても自分が引き受けなければならないことのように思えたのだ。
 こうして紆余曲折を経て、二人の同居生活が始まった。



 街を案内するためアパートを出た二人は、行きつけの店をテンマが紹介しながら街を散策する。3月でまだ肌寒いものの、タマゴやウサギといったイースターの飾りで彩られた街並みは春一色となり賑やかだ。
 街の規模は大都市という程ではないが、生活していくのに必要な店や施設は粗方揃っている。大きな公園や図書館もあり、勤務している病院も車でそう遠くない位置にあるので、住み心地は悪くない。


 カラフルに飾り付けられたショーウィンドウを横目で眺めながらテンマが呟く。
「やっぱり他のルールも決めないとだめかな」
「ルールですか」
「ああ。掃除や洗濯といった諸々の決まりごとは必要だろうね。私はひとつの所で長く他人と暮らしたことがないから、あまりぴんと来ないけど」


 あの逃亡の旅でディーターとは長い間一緒に居たが、今回のケースとは大分勝手が違うだろう。それでなくともヨハンとの同居なのだから、不安が拭えないのは確かだ。


「ああ、他人との共同生活なら僕のほうが慣れているでしょうね」
 ヨハンにとっては何気ないその言葉に、テンマはずきりと胸の痛みを覚えた。彼と暮らした人々は、もうこの世にいない。
 気持ちを悟られぬよう、テンマは明るくごまかす。
「……そうか、そうだな。私はMSFでも基本個室だったし、家事なんかはスタッフがほとんどやってくれてたからね。よし、とりあえず洗濯は別々にしよう、そうしよう」
「それはいいですが、先生の場合、仕事も忙しいでしょう」
「まあ、そうだけど」
「先生が留守の時は僕が家事をやるというのは? 料理も掃除もできるものは全部。洗濯は除外で」
 ヨハンの申し出にテンマは立ち止まり、目を瞬きさせる。ヨハンも数歩先でテンマを振り返った。
「え、いいのかい、ヨハン。それだと君のほうが負担も大きくなるけど」
「ええ、居候の身ですから。むしろさせてください」
「そうか、じゃあ素直に甘えさせてもらうかな。私もできるだけのことはやるから、何か不満があったらちゃんと教えてくれよ」
「はい」


 二人だけの暮らしは殊のほか穏やかだった。ヨハンはあくまでテンマに従順でおとなしく、これといったトラブルも起きなかった。テンマが仕事で留守にしている間もヨハンは器用に家事をこなし、不意に始まった同居生活は思ったよりもずっと平凡なものだった。


 当初は不安に思っていたテンマも二人の生活に慣れるにつれて、ヨハンとの生活がこれほどまでに馴染むことに内心驚いていた。ヨハンはテンマの領域を不用意に侵すこともなく、淡々と接してくる。あたかも以前から一緒に住んでいたかのように、とても自然に。


 ヨハンに対して、許し難いという思いが全くないと言えば嘘になる。多くの人が彼に殺された。何の罪もない人々が次々と死んでいった。彼の罪は決して消えることはない。それは永遠に。


 けれど。
 ヨハンの罪はテンマの罪だ。ずっと昔、運び込まれた幼いヨハンを助けた時からそれは始まったのだ。事件の真相を知る誰もがそれは違うと否定するだろう。だが、テンマの胸の奥にはその思いが常にくすぶり続けている。


  “あんな奴、死んだほうがマシだ!”


 あのひどく傲慢な叫びのせいで人が死んだ。それは消すことのできない事実だ。もう一度、ヨハンを助けたことは後悔していない。彼は生きなければならない。生きて償わなければ。そしてそれはテンマにも言えるのだ。


 それに、あのルーエンハイムでヨハンの絶望を突き付けられ、あの病室で彼の母親との間に何があったかを知ってしまった今となっては、もう同情を抑えることはできなかった。白昼夢のように見えて、その実、ヨハンは間違いなくテンマに問いかけたのだ。
「いらなかったのは、どっち?」と。
 罪の意識と自責の念。そして、憐れみといたわり。ヨハンとの日々は、たゆたう水のようにテンマに様々な思いを抱かせた。


 それでも表面上はお互い上手くやれていたと思う。テンマは過去のことをあまり口に出さないようにしていたし、ヨハンもテンマとの生活に戸惑いを見せることもなく、至って平静だった。


 そう、あまりにも落ち着いていたから、テンマは彼の異変に気づくことができなかった。ヨハンはずっとシグナルを出していたのに。



 真夜中を過ぎた頃。ふと目が覚めたテンマは、渇いたのどを潤そうと部屋を出る。暗い廊下の先を見やると、リビングの明かりが灯されたままだった。てっきり消し忘れたのかと思ったが、寝間着姿のヨハンがソファで本を読んでいたようだ。テンマが姿を見せるとヨハンは本を閉じ、顔を上げる。
「ああ、うるさくしてしまいましたか。すみません」
「いや、水を飲みに来ただけだから」
 テンマはキッチンの冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出してひと口飲むと、再びヨハンに向き合う。


「こんな遅くまでどうした? もう寝ていると思ったのに」
「少し、寝つけなくて」
 よく見ればヨハンの顔は蒼白く、精気がない。元々肌の色はかなり薄いが、夜に見るとより一層白く見えた。思えば最近は仕事が忙しく、まともにヨハンの顔を見ていなかった気がする。
「まさか、ずっと眠れていないのか?」
「……夢を、見るんです」
「夢?」
「アンナだったり、絵本だったり、昔の……色々な夢」


 ヨハンは孤独だった。テンマと一緒に暮らしている今でさえ、それは変わらない。彼はずっと過去に囚われたままなのか。


「そして、先生の夢も」
「……私の?」
「今の生活は嘘みたいだ。きっといつか弾けてなくなってしまう。先生、あなただっていずれ僕を――」


 “――捨てるんでしょう”


 そう言いたいのだと、テンマにはわかった。ヨハンは恐れているのだ。テンマに捨てられることを。掴んだ手を離されることを。


「……そんなことはない。私はここにいる」
 テンマはペットボトルをローテーブルに置き、膝をついた。ヨハンを安心させようとぎゅっと強く彼の手を握る。ヨハンの手はまるで氷のように冷たかった。
「ずっとそばにいると約束するよ。だから……もう大丈夫」
 誓うように、ヨハンの目をまっすぐに見る。するとヨハンの顔に心なしか安堵の色が浮かんだような気がした。
「そう簡単に約束していいんですか」
「いいんだよ。簡単なことじゃないからね」
 もちろん大丈夫なんて言葉は、ヨハンにとってただの気休めでしかないのかもしれない。だがヨハンと一緒に暮らすと決めた時から、覚悟はとうにできているのだ。ヨハンの罪も孤独も絶望も、すべて背負うことになると。


 テンマは家に常備していた軽めの睡眠導入剤をヨハンに飲ませる。彼が眠りにつくまで、ベッド脇の椅子に座って付き添うことにした。
「僕はもういいですから、先生も部屋に戻ってください」
「気にしないでいいから安心しておやすみ」
「……僕は子供じゃない」
 ベッドに横になりながらヨハンが珍しく不満げな声を漏らす。寝かしつけるようにヨハンの白い額に手を置くと、観念したのかその青い目を閉じて素直に従った。
「よし」
 ベッドの傍らで持ち込んだ医学書を読み耽る。紙をめくる音、時計の針の音。しばらくするとヨハンの規則正しい寝息が聞こえてきた。


 彼はずっと苦しんでいたのに、近くにいながら何も気づけなかった自分が情けない。テンマが頼りないから、今まで相談できずにいたのだろう。


 ヨハンは多くの里親と暮らした経験がある。そこでは彼らの望んだどおりの子を演じていたはずだ。テンマに対してもそれは同じだろう。ヨハンとの同居はそれなりに上手くやれていると思い込んでいたが、彼を理解した気になっているだけだった。
 不甲斐なさを反省しつつ、テンマはヨハンの安らかな寝顔をしばしの間、眺めていた。



「ヨハン、君の場合ずっと家にいるからよくないんだと思う。今日はピクニックに出かけよう」
 よく晴れた休日の昼下がり。思い切ってテンマが提案すると、ヨハンは一瞬、間を置いてから聞き返した。
「ピクニック? ……二人でですか」
「そうだよ。何か文句があるかい」
「いいえ、ありません」


 突然の提案にヨハンも少々面食らったようだが、午後、二人は街の公園に繰り出した。小高い丘のある広々とした公園だ。園内には芝生の広場があり、緑の生い茂る木の下にシートを敷いて手作りのサンドイッチや果物、飲み物を並べる。
 青い空にゆったり流れる白い雲。燦々とした木漏れ日に、芝生の匂いと頬を撫でる暖かな風が気持ちいい。家族連れやカップルで賑わう中、大の男が二人だけでピクニックというのもいまいち冴えないが、たまにはこんな休息も悪くない。


「いい天気になったな。来れてよかった」
「楽しそうですね」
「ああ。ずっと仕事仕事だったからね。こんなのんびりした時間は久しぶりだ。それにドイツ人はピクニックが好きだろう? 今日もこんなに人がいる。こういうの実は憧れだったんだ」
 テンマにとって、ピクニックの記憶は苦く悲しい思い出ばかりだ。台無しになった恋人とのデートや、果たされなかった友人との約束。だからこそ思い入れも人一倍強かったのかもしれない。ヨハンのためのピクニックとはいえ、テンマにとってもいい気分転換になりそうだ。食後に木陰で寝転がっていると、だんだん瞼が重くなってくる。


 ぼんやり目を開けると、辺りは一面、夕陽に照らされていた。視線を移せば、夕暮れのオレンジの光を浴びた金色の髪が視界に入る。本を読んでいるヨハンだ。テンマは横になったまま、斜め後ろの位置からヨハンを何とはなしに眺めてみる。夕陽に溶け合うような凛としたその姿は、さながら一枚の絵画だ。テンマは初めて彼を綺麗だと思った。


「先生?」
 テンマが目を覚ましたことにようやく気づいたヨハンが振り向いた。突然話しかけられ、テンマは焦る。
「うわっ、もうこんな時間か。ヨハンも早く起こしてくれればよかったのに」
「すみません。先生がとても気持ちよさそうにしていたので」


 ヨハンと会話を交わしていたその時、突然テンマの携帯電話が鳴った。以前、MSFの活動を共にしたこともある医師仲間からだった。電話を終えると、ヨハンが口を開く。
「ずいぶん楽しそうでしたね」
「ああ、前にMSFで派遣先が一緒だった人なんだ。また参加しないのか訊かれてね」


 MSF――国境なき医師団。参加してからは失った時間を取り戻すかのように多くの国へ赴いた。情勢不安の国や被災地だけに留まらず紛争地の場合もあり、常に危険と隣り合わせだったが、医師としては充実した日々でもあった。
 だが、のめり込むような医療活動は身体に無理をきたし、仕方なく一旦活動を休止したのだ。そんな時に持ちかけられたのが、今回のヨハンとの同居話だった。


「先生は……またMSFに戻りたいと思っているの」
「いや……うん。今の仕事も忙しいからね。そうだな……」
 曖昧なテンマの態度に、ヨハンの表情が硬くなっていく。
「――いや、思ってないよ。気にしなくていいから」
 大丈夫だと伝えるようにヨハンの頭をぽんと撫でる。それでもヨハンの顔はどことなく冴えないままだ。


 ヨハンはテンマに依存している。彼と暮らしていく以上、長期にわたって留守にしてしまうMSFは難しいだろう。そんなことはとうに承知済みだ。ヨハンが気に病む必要はない。


 ――いや。MSFでの日々が懐かしいのも事実だ。本当にやりがいのある仕事だった。先ほどの電話だってかけてきてくれて嬉しかったのだ。だがヨハンを放っておくことはできない。
「だいぶ風が強くなってきたな。もう遅いしそろそろ帰ろう」
 周囲は暗くなり始め、紺青の空には三日月が細く浮かんでいた。



 今日は朝からずっと雨だ。雨脚は強く、家の中はどんよりと薄暗い。
 だからというわけではないが、この一週間、元々少ないヨハンの口数がさらに減っているように思う。
 理由はわかっている。あのピクニックの一件からだ。元はといえばヨハンを元気づけるためだったのに、これでは本末転倒だ。一緒にいると約束したのに、彼には届かないのか。
 ソファで物思いに耽っていると、テンマはあることを思い出した。


 ――誕生日。
 今は5月。もうすぐあの双子の誕生日ではなかったか。ヨハンとテンマ、二人だけのささやかなパーティーを開いてみるのもいいかもしれない。


 午後、ヨハンの部屋に寄ってみると、ヨハンは窓際に凭れて外の雨をただ見つめていた。テンマが部屋に入ると、どこか憂いを含んだ顔をこちらに向ける。テンマは努めて明るく声を出した。
「もうすぐ君の誕生日だろう? プレゼントに何か欲しいものはあるかい?」
「欲しいもの……?」
「ああ。君の望むもの。私じゃ何がいいか思いつかなくてね」
 ヨハンは窓際から降り立ち、口を開く。
「僕が望むもの……僕は、今でもあなたに殺されたいと、……そう願っているよ」
 それだけ言うと、ヨハンは静かに微笑んだ。テンマも見たことのある表情だ。そう、あのルーエンハイムで見せた表情だ。


 一瞬で、二人の間に過去が蘇る。唐突に訪れた沈黙に、テンマはただ立ち尽くした。ざあざあと降りしきる雨の音だけが部屋を満たしていく。


 ――許せなかった。そして哀しいと思った。捨てられるのを恐れているのに、一方では殺されたいとも平然と言い放つヨハン。なぜ彼はこうも。


 ヨハンの突き刺すような青い目を見ていられなくて、思わず彼の頭をぐいと肩に寄せた。何も考えられなかった。
「……私は君のそばにいて名前を呼ぶことしかできない。それでも、君は……生きていかなければならないんだ」
 振り絞るように、それを言うのが精一杯だった。
「僕はずっとあなたに殺されるのを夢見ていた。ただそれだけが僕の望みだった」
 淡々と紡ぎ出されるヨハンの言葉。身体が近い分、頭に強く響き渡る気がする。
「……君は生きなければならない。……だから……だから、そんなことを言うな」
 ヨハンの告白に苦しくなって、彼の頭を押さえる指にも力が入る。
「でも矛盾しているのかもしれない。ずっとこうして、あなたのそばにいたいとも思っている」
 いつの間にかヨハンは腕を回してテンマの背中のシャツを掴んでいた。
「先生とこうしているの、嫌じゃない」
 その整った顔をすりすりとテンマの肩に寄せる。その仕草はまるで――。
「……猫みたいだな」
「そうですか?」
 水を思わせる青く透き通った瞳と視線がぶつかる。顔の近さに何だか急に気恥ずかしくなったテンマは、ヨハンの髪をぐしゃぐしゃと掻きまわし、身体を離した。
「と、とにかく、死にたがるようなことはもう言わないこと! 何が欲しいかも、ちゃんと考えておきなさい」
 ヨハンの青い目はいつだってテンマの心を掻き乱し、揺さぶってくる。あらゆる感情を突き付けてくる鏡のようだ。
「先生がくれるものなら何でもいいよ」
 もういつもの落ち着きを取り戻したヨハンがそんなことを言う。
「それじゃ何がいいのかわからないじゃないか」
「じゃあ」
「うん?」
「花をください。大きな花束を」
 意表を突く答えだった。正直テンマは男に花を贈ったことなんて一度もない。ないのだが。彼が望むのなら、それもいいか。


「わかった。君の誕生日には綺麗な花束を贈るよ」
 するとヨハンは嬉しそうに微笑んだ。先ほど見せたものとは違う、とても柔らかな笑顔。
 テンマに初めて見せた、心からの笑顔だった。

<了>

あとがき


MONSTER作品置き場に戻る
ブログに戻る